
私がまだ2歳のとき、父の友人を訪ねて岩手県宮古市に行った。そのとき見たエメラルドグリーンの海が、私の一番古い記憶だ。
父の友人は滝沢さんという人で、海岸沿いで和食店を経営していた。あれから長い歳月が経った今、滝沢さんの和食店はもうない。家も店も津波で流され、彼は今でも仮設住宅で暮らしている。
昨年の暮、音楽療法の講演のため宮古市に行ったとき、滝沢さんの住む仮設住宅を訪問してみた。
ドアをノックすると、70代前半の白髪のふさふさした男性が出てきた。海辺で生活しているせいか日焼けした顔で、優しそうな目をしている。父の名前を言うと、彼はとても驚いていた。2歳のときに会ったきりだから、私のことを覚えているはずがない。それでも、滝沢さんは私を笑顔で迎えてくれた。
「そうそう、今君のお父さんに送る新巻鮭を作っているんだ」
そう言って、滝沢さんは私を裏庭に案内してくれた。そこには、大きな新巻鮭が2本ぶらさがっていた。
そういえば、1年前に実家に帰ったとき、滝沢さんから届いた新巻鮭が冷蔵庫にあった。でもなぜ、家に送ってくれるのだろう?
「津波のあと、君のお父さんが僕のことを必死に探してくれたんだ。そのことを本当に感謝してる……」
滝沢さんは当時のことを思い出していた。
「あの時は本当にすごかった……。防波堤のところまで船があったんだよ。そういうのを見てしまうと、今でも海のそばに住むのが怖くて……」
彼の声が震えた。
「僕は父親を置いて逃げてしまったんだ……。『逃げろ!』って言ったんだけど……。僕だってあと5分、いや、3分遅かったら、助からなかった」
滝沢さんは涙をこらえながら語った。家は4分の3津波で流され、残りの部分で父親の遺体が見つかったそうだ。2階に逃げる途中だったらしく、階段で発見された。
津波が起こったのが昨日のことであるかのように、滝沢さんは話をした。まるで、彼の中で時間が止まってしまったかのように―。
震災では、多くの親戚や友人を失った。長年住んだ家も、自分の夢だった店も一瞬にして消えた。彼が津波で失ったものは、今まで大切にしていたものすべてだったのだ。
滝沢さんは今、山の裏に新しく出来た復興住宅に引っ越すことを考えている。でも、そこからは買い物が大変だ。宮古の町には急な坂が多い。
内陸に引っ越すことも考えてた。宮古に住み続けていれば津波のことを思い出すし、つらい経験を忘れることができない。でも、故郷を離れるのはもっとつらいと彼は言う。
「あと10日くらいたったら、新巻鮭ができるから、あなたのお父さんに送るよ。新巻鮭を作るのは楽しい」
滝沢さんが初めて笑顔を見せた。
新巻鮭は三陸地方に古くから伝わる食文化だ。滝沢さんは幼い頃、漁師だった父親から作り方を学んだそうだ。
宮古に行く途中、被災地で活動する音楽療法士たちが話していたことを思い出した。三陸地方にはたくさんの民謡があって、人々の生活に根付いている。震災後、被災した人たちをつなぐものが民謡や踊りだったそうだ。被災者同士でもめごとがあったときも、一緒に民謡を唄ったり踊ったりすることで昔を思い出し、みんながひとつになれた。
津波ですべてを失った人々にとって、自分と故郷をつなぐ唯一のものが、新巻鮭作りや民謡といった文化なのかもしれない。
仮設住宅を去るとき、滝沢さんが私の住所を教えてほしいと言った。
「君にも新巻鮭を送りたいと思ってね」
そして、自分の店があった場所を指さした。
「あそこだよ。今はもう何もない」
彼は愛おしいものを見る目で、宮古の海を眺めていた。
その土地に根付いた音楽の力は計り知れないものがあるのですね。沖縄とかアイヌとか
先住民の文化を近代化の名のもとに軽んじてきたと思います。
ところで私の活動しているホスピスの患者さんからアイリッシュ・ハープを聴きたいとのことでしたので、女性の牧師でもある小池さんを紹介しました。
明後日に病室でささやかなミニ・コンサートを開きます。amazing grace とか。