ホスピスの患者と家族、どちらの気持ちを優先すべき?
ホスピスの看護師さんから質問が届きました。大切なテーマですので、ご紹介します。
ホスピスで働き初めて数年目になるのですが、その中で少し引っかかっていることがあります。それは患者の気持ちよりも、残された家族の気持ちを大切にしないといけないと考えるスタッフがいることです。今までもその辺はひかかっていて、前に佐藤さんがアメリカでは残される家族よりも患者自身の気持ちが優先されていると話されていたことを思い出しました。患者自身の思いを優先した後の残された家族の反応というのはアメリカではどういった感じなのですか?
事実、日本の医療や介護の現場では、患者さんよりご家族の気持ちが優先される傾向があると思います。でも、患者さんが穏やかな最期を迎えることができるようサポートするのが最も大切で、最終的にそれは家族にとっても “peace of mind(心の平和)”をもたらすと思います。
後悔のない「看取り」はある?
日本では「後悔しないための看取り」という観念が根強くあります。友人の同僚が、患者さんよりも残された家族の気持ちを大切にしないといけない、と考える理由もそこにあるのでしょう。
でも、「後悔」はグリーフ(悲嘆)において避けられない感情です。どんなに献身的な介護をしても、大切な人が亡くなった後は何等かの後悔や罪悪感が残るものです。そのため、医療・介護従事者は「家族に後悔させないためにはどうするか」ということよりも、「家族のグリーフをどう支えていくか」に焦点を当てる必要があると思います。
医療における主人公は誰?
終末期ケアでは難しい問題がたくさんあります。これはアメリカでも同じですが、誰の希望や気持ちを最優先すべきかは明確で、問題になることは稀です。というのも、欧米の医療現場では、患者さんのニーズに対応し、彼らの権利を尊重することがよいケアであると考えられているためです。
つまり、医療者や家族は患者さんを支える立場、つまり「脇役」であり、「主人公」はあくまでも患者さんなのです。文化の違いはあっても、この点は世界共通だと思います。
でもそれは、家族の気持ちを大切にしないということではありません。むしろ、ホスピスとは、末期の病気を患う患者さんだけではなく、家族にも提供されるケアそのものを指します。それを行うのは簡単なことではありまんので、そのためにソーシャルワーカー、カウンセラー、チャプレン(聖職者)、音楽療法士など、心のケアを提供するためのトレーニングを受けたスタッフが必要になります。
後悔は避けられない感情だと書きましたが、このようなつらい気持ちは一生続くものではありません。グリーフに対する知識を持つことで、自分が抱いている様々な感情はグリーフにおける普通の反応だと気づくことができますし、周りのサポートを通じて心は回復に向かいます。
この質問を送ってくれた看護師さんのように、患者さんやご家族のケアを真剣に考えている人が現場にいることは心強いです。未来の日本の医療を支えていく人たちには、ペイシェント・センタード・ケア(患者さん中心のケア)をして欲しいですし、きっとそうなっていくだろうと思います。
延命治療の代わりにできることは?
人生最期のケアについて考えるとき、患者さん本人の意思を尊重することが大切だという考えは、多くの人が共感することだと思います。近年、なるべく自然に穏やかな最期を迎えたい、と望む人が増えているように思います。そして、そのような希望を家族とオープンに話をする人も増えてきているので、今後本人が望まない延命治療を行うケースは少しずつ減るでしょう。
しかし、それでもなお、「見送り」をする家族には大きな不安が残るのではないでしょうか。それは、「もし延命治療をしないのであれば、私はいったい何をしてあげられるのか」、という不安。
言い換えれば、「死に逝く人は何を求めているのか?」という本質的な疑問です。
大切な人のニーズを知るためには、どうすればいいのでしょう。まず、私たちは彼らの想いにしっかりと耳を傾ける必要があります。『死に逝く人は何を想うのか』の中で紹介している24人の患者さんたちはもうこの世にいませんが、私の心には彼らの声が今でも聞こえてくるのです。
そのひとりが、青森のホスピス病棟で出会った万里子さんという50代の女性です。末期の乳がんを患っていた万里子さんは、抗がん剤治療を試してみたものの、期待した効果は見られませんでした。彼女がホスピスへの入院を希望したとき、旦那さんは強く反対しました。
「旦那は抗がん剤をやめるっていうことは、死を認めるっていうことだと思っていてね。『あきらめないでくれ』って泣きつかれたわ」
親戚や友人には、「家族のためにも治療を続けなきゃだめよ!」と言われ、他のがん患者からは、「あなた勇気あるわねえ。ホスピスに行くっていうことは、死ぬっていうことと同じよ」とも言われたそうです。
誰も自分の気持ちを理解してくれない……。万里子さんは、どんどん「孤独」を感じるようになっていたのです。彼女は、涙ながらにこう語りました。
「私はあきらめたわけじゃないの。これだけはわかってほしい。最期まで人間らしく生きたいだけなの。死ぬのは怖くないけど、自分らしく生きたいのよ」
彼女のように、心境をわかってもらえないと嘆く患者さんは本当に多いです。万里子さんは自分の直面した現状を受け入れていましたが、「あきらめたわけではない」とも言いました。彼女はその複雑な心境を、周りに理解してほしかっただけなのです。
私は今まで人種も国籍も異なる数多くの患者さんと出会いましたが、死に逝く人たちが求めていることは根本的に同じだったように思います。それは、「自分の気持ちをわかってほしい」「ありのままの自分を受け入れてほしい」、という願いです。
つらいことがあったとき、誰かに気持ちを聞いてほしい。でもそれは、アドバイスがほしいとか、苦しみを取り除いてほしい、というわけではない。ただ気持ちをわかってほしいだけ…….。あなたも、そう思った経験はありませんか?死に逝く人たちも同じです。
あなたが大切に思っている目の前の患者さんたちは、自分の悲しみを誰かに何とかしてもらおうとは思っていないし、問題を解決してほしいと思っているわけでもない。彼らが必要としているのは、安心して気持ちを表現できる環境と、共感してくれる相手なのだ。
~『死に逝く人は何を想うのか』より
彼らが私たちに求めていることは、何かをすること(Doing)ではなく、寄り添うこと(Being)なのです。
万里子さんは旦那さんに気持ちを受け入れてもらえたあと、病室で穏やかな日々を過ごせるようになりました。彼女はある日、このようなことを言いました。
「この人、毎日お見舞いに来てくれるの。別に何を話すわけでもないんだけど、こうして一緒にいてくれるだけでうれしいの」
万里子さんにとって何よりも大切だったのは、旦那さんの理解と、彼の存在そのものだったのです。
死に逝く人の心情を理解することは、容易なことではありません。私たちにできるのは、患者さんの立場に立ってその気持ちをわかろうとする努力、それだけでしょう。でも、その姿勢こそが、本来の意味での「寄り添う」ということなのだと思います。
スピリチュアリティーとはそもそも何?
体だけではなく心のケアやスピリチュアルケアが大切だという考えは、全人的ケア(ホリスティック・ケア)と呼ばれ、緩和ケアやホスピスケアの基本となる理念です。ただ、国内の医療では、患者さんやご家族への心のケアやスピリチュアルケアは置き去りになったままの状況があります。その理由のひとつとして、「スピリチュアル」や「スピリチュアリティー」という言葉の意味が誤解されていることが挙げられます。
スピリチュアリティーには幅広い意味があり、日本語への訳が難しいため、国内では宗教と同じように解釈されていますが、両者は異なるものです。スピリチュアリティーとは神聖なものと自分、世界と自分との関係性を指します。他人を思いやる気持ち、感謝の気持ち、自分を生き生きとさせるもの、人生に意味を与えるもの。そういったものが、その人のスピリチュアリティーと言えます。音楽やアートは人間のスピリチュアリティーの表現と言うこともできます。
数年前、一般法人日本メメント・モリ協会のフォーラム「緩和ケアを考える」で、心のケアやスピリチュアルケアに焦点を当ててお話ししました。下記はその時のスライドです。
ホスピスで点滴をしない理由とは?
以前、都内でグリーフをテーマにした講演を行った際、50代前半の女性が話しかけてきました。
「私は母の死をずっと自分のせいだと思っていました」
彼女は突然泣き出しました。女性のグリーフはあまりにも生々しいものだったので、母親の死は最近起こったことなのかと思いました。でも話を聞いてみると、それは10年も前の出来事でした。彼女の母親は心臓病で入退院を繰り返していたそうです。母親の容態が悪化し、家族で最期を見守っていたある日、看護師が「もう点滴が入りません」と家族に告げました。
それがどういう意味なのか彼女にはわかりませんでした。でも、数日後母親が亡くなったとき、彼女はどうしようもない罪悪感に襲われたと言います。
「点滴をやめたことで、脱水症状になって母は死んだと私は思いました。なんであの時、看護師さんになんとしてでも点滴をしてもらわなかったのか……。母の死は自分のせいだと感じました」
彼女の目からは涙があふれ続けていました。まるで、ずっとこらえてきた何かを止めることができなくなったかのように……。
人が死に近づいたときどのような過程をたどるのか、話題になることは少ないと思います。医療関係者の中にも「死の自然な過程」をよく知らない人がいます。彼らの主な役割は死を防ぐことであり、死の過程をサポートすることではないからです。
彼女の母親に起こった「脱水」とは、実は死を迎えるときに起こる自然な現象です。
終末期の患者さんにとって脱水は苦しいものではなく、いくつかのメリットがあることも知られている。たとえば、肺の分泌物が少なくなるため呼吸が楽になることや、むくみを減らし患者さんを楽にすること。消化液が少なくなることで嘔吐、吐き気、お腹の張りを軽減できること。また、脱水状態になると脳からエンドルフィンと呼ばれる麻薬のような物質が出るため、心地よさが増すとも考えられている。
ー『死に逝く人は何を想うのか』より
このような理由から、ホスピスケアでは点滴をしない、あるいは点滴の量を減らす、などの工夫がなされています。一方で、点滴という行為が患者さんにとって苦痛となることは多く、それはさまざまな研究からも明らかになっています。
つまり、彼女の母親は脱水が原因で亡くなったのではなく、脱水はあくまでも死に近づいたために起こった「自然な現象」だったのです。死を迎える人に点滴は必要なく、むしろその方が本人にとっても楽です。もし彼女が、医師や看護師からそのような説明を受けていれば、母親の死を自分の責任だと感じることはなかったでしょう。
「もっと早く知っていれば……」
別れ際に彼女は言いました。私はこれまで終末期ケアや音楽療法についてひとりでも多くの人に知って欲しいと思い、執筆や講演活動を続けてきました。その過程で、「もっと早く知っていれば……」という声を患者さんやご家族から何度聞いたかわかりません。
「聴覚が最期まで残っていることを知っていたら、お父さんが亡くなる前に話しかけたり、音楽をかけたりしてあげたのに……」「認知症の人と音楽で関わりをもつことができると知っていれば、母親にもっと何かしてあげられたかもしれない」「緩和ケアってこういうものだと知らなかった。もっと早く受けていればよかったと後悔している」
このような言葉を聞くたび、医療関係者と一般の人の間にはすれ違いが起こっているのではないかと感じます。
穏やかな死を迎えるために、必要なことは?
私はこれまでアメリカと日本のホスピスケアに携わり、沢山の患者さんたちと出会いました。彼らの苦悩や恐怖だけではなく、希望や夢にも耳を傾けてきました。彼らの心やスピリチュアリティーの変化には、いくつかの特徴があります。それでも、死に逝く過程はひとりひとり違います。生き方が違うように、穏やかな死を迎えるために患者さんが必要としているものは、人それぞれです。
死に直面した人の気持ちは、それを経験したことのない人にはわかりません。その認識こそが、患者さんとの信頼関係につながります。わからないからこそ患者さんの心境を理解しようと努めるからです。逆にその姿勢がなければ、患者さんは心を開かないでしょう。
近年、尊厳死や安楽死を含む終末期(エンド・オブ・ライフ)に関する様々なテーマが議論されています。しかし、末期の病気と共に生きている人たちの気持ちを本当に理解していないと感じることが多いです。医療介護従事者や家族の視点から論議している人たちは、自分たちの介護経験や人生経験から語っているのでしょうが、自分自身が死に直面したことがない限り、末期の患者さんの気持ちを知ることはできません。
そして、自分の経験が必ずしも他の誰かの経験と重なるとは限らない、ということを理解することも大切です。例えば、家族が末期がんで終末期の段階になったとき、延命治療を行ったとします。本人の死後、それが本人にとっても良かったと感じるし、自分にとっても良かったと感じる。だからといって、同じ病気の人やもしくは似たような状況にある人にとって、その選択がベストだとは限りません。逆のシナリオの場合でも同じです。
人間が穏やかな最期を迎えるために必要なことは、人それぞれ違うのです。
ホスピスで働くのは憂鬱?
「ホスピスで働くのは憂鬱ではないですか?」とよく聞かれます。 ホスピスの仕事は悲しく、憂鬱なものではないかと思う皆さんの気持ちはわかります。それは、ホスピスは「死の場所」と考えられているからでしょう。
しかし、ホスピスは場所ではありません。 ホスピスとは、末期の患者さんやその家族に提供されるケアのことです。その目的は、患者さんが安らかに尊厳を持って最後の時を過ごせるよう、医療だけではなく、心のケアを提供することにあります。病気を治す事を英語で cure(キュア)といいますが、ホスピスの基本は、cureではなく、思いやること、すなわちcare(ケア)です。
ホスピスでは、死を医療の敗北とは考えません。死は誰もがいつかは経験する人生の過程です。そういった意味では、人の死を助けるのと赤ちゃんの出産を助けるのは、よく似てます。両方とも、人生に起こる自然な過程だからです。
私の友人で、救急病棟の医師をしてるアメリカ人がいます。ある日彼が、週に1度出席しなければいけないミーティングについて話してくれました。そのミーティングは「疾病率と死亡率」といい、その週に病院に運ばれてきた患者さんの病気や死に関して、チームで話し合うものです。患者さんが亡くなったケースは、また同じような事が繰り返されないように、慎重に分析されます。死が防げない場合があるとわかっていても、 救急病棟で働く人々にとっては、死は医療の敗北なのです。
救急病棟の医師としての仕事は、ホスピスの音楽療法士としての仕事以上に、死に焦点を当てた仕事だと、私と友人は同感しました。死は自然な現象で、避けられないものです。そして時には、患者さん本人にとっては、喜ばしいことでもある場合もあります。そういった認識をすると、ケアの焦点が死から生きることへと移行します。死を防ぐことではなく、患者さんが残りの人生をどうやって有意義に過ごす事ができるか、ということが重要になってきます。
ホスピスケアの焦点は生きることです。なぜなら、死にいたる過程は生きていることの一部だからです。何年か前、50代の末期がんの女性が、亡くなる数日前にこう言いました。
「私の人生は冒険だったわ。死は私にとって、また別の冒険。私は今、新たな冒険に臨む心の準備ができてるの」
人の人生の過程にこのようにして関わるということは、とても貴重で神秘的な経験です。ホスピスで働くということは、憂鬱ではありません。それどころか、生きることについて沢山のことを教えてくれた、かけがえのない道のりであったと思います。
【関連記事】最新データからみる、アメリカのホスピスケアの現状
勝俣先生のFacebookシェアから拝読させていただきました。
お話の主旨からずれてしまうかもしれませんが、つたない私の体験を書かせていただきます。
8年前に祖母の旅立ちの準備を祖母と一緒にしていた時、訪問看護師さんから「ペイシェント・センタード・ケア」を実践している家族と言われたことがあります。大したことはしてなく、単純に、祖母がどのように、今日一日を過ごしたいかに重点をおいて生活していただけなのです。
私は不器用で、看護と仕事の両立は出来ないので、祖母の為に、仕事をやめて付きっきりで、終末期の時間の流れを中心とした生活をし、いろいろ経験をさせてもらいました。
大変な面よりも楽しかった日々が今では強く記憶に残っています。
私のグリーフは、祖母が旅立ってから、終末期の時間の流れから、健康な人の時間の流れに感覚を戻すことが出来ず、この世から取り残され感をいだき辛かったことです。
その当時、「生と死を考える会」に参加して、同じようなご経験をされた方とお話させていただいたり、私はカトリック信者のため、「サダナ瞑想」と「カトリック内観瞑想」をし、祖母と過ごした日々を振り返る時間を意識して持つことにしました。
今、振り返ってみて、グリーフは辛いですが、どのようにグリーフの時期を過ごすかで、グリーフの時期もとても大切な日々と見直すことができるのかもしれないと思います。