今回、日本音楽療法学会認定音楽療法士の小森亜希子さんにゲストブロガーとして記事を投稿いただきました。現在小森さんは、札幌の老人保健施設に勤務されています。
自分を感じること
by 小森亜希子
「私は仲間と上官を見捨てた。どうして自分だけ生き残っているんだろう・・・」
泣きながら辛い思い出を打ち明けてくれた太郎さんは、私に音楽療法に向き合うきっかけをくれた大切な存在です。
音楽療法を学んでいた私が学生を終えたとき、大切な身内の死、音楽療法士としての能力のない自分に向き合うことが出来ず、音楽を感じることが音楽を聴くことが出来なくなっていました。
そんな私は、音楽療法士という夢をあきらめたつもりが心のどこかでは捨てきれず、かねてから関心のあった認知症の方を知ろうと認知症対応型グループホームに介護職員として就職したのです。
戦争体験のフラッシュバック
今から7年前、グループホームで出会った太郎さんは、高校生の時になくなった大好きな祖父に年齢だけではなく、顔つきや体つきまでとても似ている男性でした。その当時、90歳だった太郎さんは、脳梗塞の後遺症として、手と足に麻痺があり、車椅子で生活をしていました。いつも朗らかな笑顔を見せながら、演歌を聴くことを好み、犬のぬいぐるみの愛犬を可愛がる冗談の大好きな方でしたが、脳梗塞の影響から脳血管性の認知症を発症していました。
22歳で終戦を迎えた太郎さんは、陸軍に所属しており、上海は、戦時中も人が多く賑わっていたように見えたこと、また、満州では弟の部隊とすれ違ったことがあると良くお話を聞かせて下さいました。ですが、戦争で仲間や兄弟を亡くしている太郎さん自身もかなり大変な経験をされたのでしょう。テレビのニュースで残酷なニュースが流れるとき、戦争に関する話題のドキュメンタリーが流れている時に急に戦争体験がフラッシュバックするようで戦争体験の妄想が引き起こされ、窓の外の電線やアンテナを見て、ものすごい剣幕で怒り、攻撃的になるのです。
「アメリカ兵が来る!」
「あの飛行機は、ロシア軍だ!米軍だ!」
「やっつけなければ、やられるぞ!!」
ご自身の杖や食器、時にはTVまで投げようとします。止めに入るスタッフは、彼にとっては敵に見えるようで杖を振り回して攻撃してきます。
怒り出した太郎さんには、職員の声は聞こえていないようで気分が変わるようにと話しかけても「それどころじゃない。逃げないとやられるぞ。やらないと殺されるんだ」とかなり興奮した状態になります。もちろん、怒っている間は、食事を召し上がることもなく、横になって休むこともできません。汗をかいていても衣類が汚れてしまっても交換する為の関わりすら拒否し、ずっと怒っています。職員にできることは、落ち着くまで待つことしかありません。
ですがそんな太郎さんの行動に他の方が不安を感じ、落ち着かなくなるという負の連鎖が生まれてしまうため、ずっと待っている訳にもいかないのです。怒り、暴れてしまう行動に対してお医者さまからは向精神薬が処方されていますが、もちろん薬を飲むことも出来ず。脳血管性認知症は、記憶がまだらになっていることが特徴の一つとしてあげられます。太郎さんも落ち着いた時には、怒り暴れる自分の行動に対し「皆に迷惑をかけてしまった」とご自身を責めてしまいます。

太郎さんとの音楽療法
そんな日々が続いていたある日、偶然、音楽が流れていると太郎さんが怒っている時間が短くなることに気がついた職員がいました。ちょうどその頃、グループホームの中で音楽療法を実施する時間が作れないかという相談を頂き、楽器を用意してくださることになりました。週に1~2度ほどある早番の勤務の時、退勤する前の14時頃に、太郎さんが一日の中で長い時間を過ごすフロアの端のスペースにキーボードを持っていき、太郎さんのカラオケの18番である「星影のワルツ」や「夕焼け雲」「大阪しぐれ」を弾くというセッションの時間を作るようにしていました。
つじつまが合わない会話が多いですが明るい表情でおしゃべりをしながら、朗々とした歌声を披露して下さいます。そんな中、別な方が「船頭小唄」という曲をを歌いながら近づいてきました。歌っている旋律をピアノで弾き、私も歌い出すと太郎さんが急に泣き出しはじめました。私は太郎さんにとって何か特別な曲である様に感じました。
そのため、太郎さんの調子と音楽の場の雰囲気に合わせて「船頭小唄」をセッションの曲に組み込むことにしていました。「船頭小唄」を聞いては、泣き出すというセッションが4回目にさしかかったとき、太郎さんはおもむろにご自身の体験を語りはじめました。
もともと、戦争に関する体験を私たちに教えて下さっていた太郎さんですが「私は逃げ足が速かったんだ。だからよくチョロ助って言われていたんだよ」と笑いながらポジティブな体験を語っていました。ですが「船頭小唄」をきっかけに話して下さった体験は「戦地で仲間や上官を見捨ててしまった」というネガティブな記憶です。ですが、つじつまの合わない話ではなくかなり詳細まで具体的な内容を回想されています。「船頭小唄」を唄うことはないものの、この曲が流れると涙を流すことなく戦争体験を語って下さいました。
「この曲はよく仲間と唄ったんだ」
「吉田ってやつが歌がうまくて、本当に良い声をしていたんだ。」
「怒られるから隠れて歌うのが楽しみだったんだよ」
音楽を聴きながらそんな思い出話を聞いているうちに、少しずつですが太郎さんが戦争体験のフラッシュバックにより、妄想を抱く日は減ってきました。また、以前は、妄想がはじまるサインを出さなかった太郎さんですが、少し不機嫌だな、落ち着かない感じがするというサインを示すようになりました。そんなある日、涙を流しながらもしっかりとした声で最後まで「船頭小唄」を歌ってくださったのです。その日以降、戦争体験のフラッシュバックによる妄想は姿を見せなくなりました。そして不機嫌な様子や落ち着かない様子も1ヶ月が過ぎる頃には見られなくなっています。
音楽療法に向き合うこと
太郎さんに人生の中で戦争体験は、辛く悲しい体験だったと思います。進行していく認知症を患っている太郎さんにとって、その戦争体験が突然、現在に思い起こされていたのだと思います。ですが、仲間と親しんでいた音楽は仲間と過ごした時間を思い出させるきっかけになりました。自分の口で戦争の記憶を思い出し、誰かに話し、自分の中で受けいれていく・・・。
戦争は過去のことで、今の自分の環境は脅かされてはいないということに自分自身で気がついたのではないかと思います。太郎さんが「船頭小唄」を通して体験した時間は、太郎さん自身にとって傷を癒やす時間になりました。そしてその時間を共有した私自身にとっても、「音楽療法ができない」「音楽が心に響いてこない」という私自身の傷を癒やす時間になっていたのだと思います。太郎さんと出会ったことによって、私は音楽療法に向き合うことが出来るようになりました。
太郎さんとの体験を通して、「人とつながること」が自分を支え、恐怖心や不安感と向き合う強さを生み出してくれていると感じました。トルストイの言葉に「死ぬときは人間は一人である」とありますが、生きているからこそ「つながり」を感じることが出来るのだと私は思います。恐怖心や不安感を誰かに打ち明けることは簡単なことではないかもしれません。ですが「辛いこと、不安なことを誰かと共有することで心が軽くなること」、「誰かとつながることで人は向き合う強さを得られること」を思い出したとき、そして、その恐怖心や不安感を聞いてくれる人に出会ったとき、新しい一歩が踏み出せるかもしれません。
小森亜希子(こもり・あきこ)
日本音楽療法学会認定音楽療法士・介護福祉士。札幌大谷大学音楽学部音楽学科ピアノコース卒業。大学在学中より音楽療法を学びはじめ、認知症対応型グループホームでの勤務を経て、現在は医療法人資生会介護老人保健施福住の丘に勤務。
難しい説明などしなくても この文章を読めばよく一緒にされてしまう音楽レクと音楽療法が全く違うものなのだとわかるのではないでしょうか? 聞きかじりでなく 自身で体験し感じたからこそ伝わる文章だと思います
自分を重ねてしまうのは図々しいのですが、大切な人に対して犯した過ち(少なくとも本人はそう感じ後悔している)は、ずっと火種がくすぶっている 本来は謝ったり、相手と過ごす時間の経過の中で消化できるものだが、相手が彼岸に言ってしまった為に消化できず、いつまでもくすぶりつづける 普段は奥底に追いやっていても何かの瞬間にパンドラの箱は空き、本人がコントロールできず襲いかかってくる。人はネガティブなことばかり忘れずにいる
でも本当は相手との素敵な時間もあったはず きっとこの方は船頭小唄で仲間と一緒に過ごした時間を取り戻せたのではないでしょうか? かといって同じような事例がほかの方にも通じるとは限らない 薬と同じ だからこそ療法であり、音楽療法士という専門家が必要なのだと思います
生意気なコメントですみません
79歳の私は療法士の試験はあきらめましたが、作曲をやっている関係で音楽レクを積極的にやっています。10年近く前の体験ですが、あるデイサーヴィスの部屋で90歳代の男性が「おめぇ、何しに来た。歌だと?童謡なんか歌わねぇよ。『加藤隼特攻隊』やってくれ。」と言ってきました。その時にはその曲を知らず次回必ずと約束して翌月弾いて一緒に歌いました。するとその時から態度が変わり『同期の桜』や『大江戸出世小唄』などを要求し、『旅の夜風』では涙を流していました。だんだんと会話もするようになり、大きなお寺の本堂を作るような大工さんだということがわかりました。そのお寺を見に行き次の時にその話をするととても喜んでくれました。この方も多くの戦友を亡くされたそうです。20歳ほど世代が違うと心を通わせるのは難しいのですが、それでも若手の療法士さんたちに比べれば共通の時代を生きたものとして、音楽レクの仕事に励んでいこうと思います。最後になりましたが小森さんの貴重な体験談ありがとうございます。
コメントありがとうございます。小森さんにも伝えますね。
こんにちは
私は資格は無いのですけど、音楽療法のボランティアを札幌市でしてます。
私は、重い認知症の方とあまりお会いしてはいませんが
集団セッション中
仲間には加わらず、一人でポツンと背中をみせる男性がいました。
私は、音楽療法が終わるとクラリネットの手入れをして片付けるのですが、その高齢の男性から声をかけられました。
クラリネットか、懐かしい
兄がふいていたと。
私は思わずその方に、まあ
クラリネットを吹いていたご家族さんがいるのですね。と話かけました。
おうよ、俺はな、トランペット吹いていた。
思わず、わあ、すごい
私はトランペットの音をだせなかったです。
と、おしゃべりをはじめました。
あんたは、偉い、楽器を凄く大事にしている。
いわれ、ビックリしました。
トランペットは、水切りだけで
簡単なんだよ、しまうの
と、車椅子のその方は
両手でトランペットを吹く動作をされました。
その次のセッションから
その方は、参加して下さる事になり
嬉しかったです。
ただ、残念な事に、しばらくたち
入院なされたと聞いた後、お会いする事はなくなりました。
ほんの小さなきっかけで、参加いただき嬉しかったです。
また、別の施設へお手伝いにいきました時
船頭小唄の好きな男性がいらした事など
読ませていただき、懐かしく感じました。
コメントありがとうございます。小森さんの記事が振り返るきっかけになったようですね。