「ひとつだけ後悔があるの」
ある日、時子さんが言った。
「私の人生を、書き留めておけばよかった……」
思いがけない言葉だった。
沖縄戦を経験し、戦後アメリカに移住した時子さんは、戦争の経験を人に語ることはなかった。息子さんにさえ、つらい過去を明かすことはなかったのだ。だからこそ、私は驚いた。自分のストーリーを書き留めておきたい……?
時子さんに出合ったのは、2009年の夏。シンシナティ市内の老人ホームでホスピスケアを受けていた彼女は79歳。心臓病を患っていた。会話をすることも食べることにも興味を失い、うつ病と診断されていた。彼女のうつ病を和らげるため音楽療法を委託された私は、月に数回彼女のもとに通った。
私が「浜辺の歌」などを唄う間、彼女は終始おだやかな表情をしていた。しかし、その顔の裏には、つらい過去が隠されていたのだ。
「私の人生は複雑だった。私だけ……私だけ生き残ったの……」
そう言って、私の目をじっと見つめた。
数ヶ月にわたり時子さんを訪問するあいだ、彼女は少しずつ心を開いてくれた。楽しかった子ども時代の思い出。沖縄戦で死んだ弟や名古屋空襲で死んだお姉さんの話。沖縄で戦死したお父さんのこと。
時子さんは戦後、米国軍人と結婚し、アメリカに移住した。彼女にようやく幸せな日々が訪れたのだ。しかし、その彼もベトナム戦争に送られ、生きては帰ってきたものの、戦争の後遺症でアルコール依存症になってしまった。
戦争に大きく左右された時子さんの人生。それにも関わらず、彼女は不平不満を言うこともなく、誰のせいにするわけでもなかった。ただ、「なぜ自分だけ生き残ったのだろう」という問いに悩まされ続けていたのだ。
ひと通り人生のストーリーを話し終えたころには、時子さんの容態はよくなっていった。家族とも話すようになり、食欲もでてきたのだ。秋の気配が感じられるようになったころ、彼女はホスピスケアの対象から外れることになった。
お別れの日、一緒に「浜辺の歌」を唄った。時子さんはこの歌が大好きだった。歌が沖縄の海を思い出させたからだ。たとえ悲惨なことがあった場所でも、彼女にとって沖縄は特別な場所だったのだ。「浜辺の歌」を唄いながら彼女が思い描いたのは、沖縄の真っ青な空と果てしなく広がる海だったのだろう。
「私の人生を、書き留めておけばよかった……」
唄い終わると、時子さんが言った。
「今まで私の過去なんて、誰も聞きたくないと思っていたわ。でも、伝えることが大切だって気づいたの」
私はいつか時子さんのストーリーを書くことを約束し、その数年後、『ラスト・ソング』に彼女のストーリーを紡いだ。
6月23日は沖縄戦が終結した日。あなたは何を想うだろうか。もし、沖縄戦がはるか遠い昔の出来事と感じるのであれば、時子さんの人生を知って欲しい。
経験を伝えないことは、それを裏切ることになる。
~エリ・ヴィーゼル(ユダヤ人作家・ノーベル平和賞受賞者)
仕事柄ご高齢の方と接することが多いのですが、やはり多くの方は戦争のことを語りません。
実際に戦闘をされた方に特に顕著だと思います。
私が聞いた話しでも、その方が亡くなってからご家族の方々に、「そういえばこんな事を話されましたね。」などと言うと、ほぼ間違いなく「初めて聞きました!」「お爺さんは一度も戦争の話しなんかしたこと無かった。」と却って来ます。
(一緒に住んでられるのにです!)
私の祖父(南方へ行ったらしい)も殆ど話し手はくれませんでした。
ただぽつりと俯いて「戦争はダメだよ、絶対にしちゃいけない…. 。」ただそれだけでした。
きっととても辛いことがあったのだろう、思い出したくないことだったのでしょう。
多くの戦争体験者に語って欲しいです。
でも私自身からそれをお願いすることは…. やっぱり出来ません。
今までもそうだったし、多分これからもそうでしょう。
でも語って欲しいです。
先日、テレビ番組で沖縄の戦争の記録がありました。米軍側がフォトや記述で記録しておいたものと日本の記録と照合して、日付を特定し、沖縄住民を誤って射殺した若い米兵が泣き崩れる場面もありました。戦争で儲かるのは軍需関連で儲かる企業、それにつながる政治屋さんたち、などなどでしょう。命を理不尽に奪われるのは受け身の市民国民です。
時子さんのこと、記録に残すことの大切さ、、つくづく私も思います。私は今から9年前、左腰の痛みで、関西労災病院を受診し、一人で歩行して大阪市内から通院2回。整形外科医から『神経の流れは手術するには勿体ない程良く流れているが、痛みがあるのなら、手術。開けてみないと分からないこともあるからな』と軽くオペを決められ、h18年12月の腰椎固定術で身体障害者におとしめられました。後で多くの医療者の方々に画像を確認していただくと、固定手術しなくても良い程度の脊椎の左側神経根だけの軽度の圧迫だったそうです。つまり除圧だけで良かった、それを医師が自分の欲で、新しい術式を試したかった為に、比較的若かった私の腰で試してみたかったに過ぎない、とわかったのでした。
人体実験手術のようなセクスタントという、半分低侵襲もどきで、実際はX線で長時間照射しながら、狭い堆弓根と言う部位に大きな金属を挿入するという方法だったのです。
結果、6本の金属の内、3本がトラブルを起こし、2本は腰椎4番で神経根と脊髄神経に接触し、1本は刺入部を間違えて挿入されました。術後、ドレーンで排血すべきところを、ドレーン不良で排血できなくなり、脊髄神経周囲に血の塊が沢山出来て、脊髄神経を圧迫し、結果的に、背中、腰、臀部、下肢に麻痺が起きました。麻痺が出てる、激痛と緊急コールをしても医師は検査も入れず放置して、再手術は7日目という手遅れでした。
カルテには『麻痺は無いが、再手術した』と書かれ、裁判を起こしましたが、何と地裁でも高裁でも、私が完全敗訴になりました。記録に残すことの意義を考え、私は弁護士さんに勧められてブログを書き始めました。チタン固定術 医療ミス・・で書いています。
教師をしていましたが、職場復帰叶わず、人生何が起きるか分かりませんね。
娘がバイオリンを少しやっていますので、彼女の弾く音楽で痛みが薄らぎます。
メッセージありがとうございます。大変な経験をなされましたね。書くことで少しでもお気持ちが楽になることを願います。
沖縄に3年住んだことがあるのですが、悲惨な沖縄戦の後、たとえ生き残ってもその後、数奇な人生を歩んだであろう女性もいたんだろうなと思っていました。時子さんの過去はやはりそうだったか、という気持ちです。沖縄での語り部も数少なくなり、いつまで語り続けてくれるのか不安です。
由美子さんのラスト・ソングに時子さんの過去と人生が書かれたことで後世に伝えることができます。安保が話題になっている今の時世ならこそもう一度戦争の悲惨さを認識すべきだと思います。
水谷昇一
沖縄に住んでいらっしゃったのですね。私もいつか平和祈念公園に行ってみたいと思っています。時子さんのお父さんは海軍の軍人で沖縄で戦死した方なので、お名前が平和の礎に刻まれているそうです。
沖縄に行ったときにひめゆり部隊の女学生であった語り部の女性の話を聞いてその悲惨さに言葉を失いました。 住民が集団自決をした例も相当あったとのことでした。
よく戦争が悪いのだからという人がいますが、その戦争を引き起こしたのは人間なのですから。先日テネシーワルツという推理ドラマを見ましたが、戦後の混乱期の横須賀が舞台でしたが、米軍人と恋愛した女性の悲しい結末でした。曲はテネシー州の州歌ということですが、哀愁を感じさせる名曲ですね。
小金井の講演会は楽しみにしておりましたが、犯罪被害者支援の会合がありますので、
参加できなくなりました。
次に首都圏近郊で開催される場合にはぜひ出席したいと思います。
なお私が代表をしております湘南医療・福祉を考える会が10月18日の午後に藤沢市民会館で行います。 ターミナルケアをテーマにする予定ですので、佐藤さんも上京されて
いらっしゃればぜひご参加ください。 30名くらいの小規模な会合ですが。
戦争で最初に犠牲になるのは、子どもや若者ですね。沖縄戦は想像を絶する悲惨なものだったと聞きます。
湘南医療・福祉を考える会にご招待いただき、ありがとうございます。そのころ愛知県で講演会があるため、参加は難しいと思いますが、いつかお会いしましょう。