病気とともに生きていくことに疲れたとき、「もう死にたい」と口にする患者さんがいます。そして、ある日を境にその言葉が、「もう死にます」に変わる時があります。そういう患者さんは、その言葉通り数日後に亡くなることが多いのです。ホスピスの患者さんは、潜在意識で自分の死期が近いことを察しているとしか思えないような言動をとることがあります。
では、アルツハイマーなどで認知的な能力が弱まった人の場合はどうでしょうか?
音楽療法のインターンシップをしていた当時、私はハーブという80代の元ジャズシンガーの患者さんに出会いました。アルツハイマーの末期の症状に苦しんでいた彼は、老人ホームに住むホスピスの患者さんでした。一人娘の名前さえも忘れてしまった彼と、言葉でコミュニケーションを図るのは難しい状態でした。
しかしハーブは、昔の曲だけは覚えていたのです。 私がギターの伴奏で“What A Wonderful World(この素晴らしき世界)”などを歌うと、曲の間だけは生き生きとリズムをとったり手をたたいたりしていました。そしてときには、音楽によって彼が記憶をとりもどすようなこともあったのです。私たちは音楽を通じて会話を積みかさねていきました。
ある日、セッションを終えて部屋を出ようとしたとき「君のために歌を唄うよ」という声がしました。驚いて振り返ると、いたずら好きな子どものように笑うハーブがいたのです。日ごろから「もう歌は唄えない」と言っていた彼が歌を……?
ハーブは低い声でゆっくりと歌いはじめました。普段は簡単な言葉を発することさえ苦労する彼の口から、すらすらと言葉がでてくるのです。
歌の後私が拍手をすると、ハーブは満足そうな笑顔をうかべました。そのとき、私は初めて本当のハーブを見たような気がしました。音楽に満ちた人生を送り、社交的な性格だったハーブ。アルツハイマーという病気のために、彼本来の姿はその中に隠れてしまっていたのです。
2日後、ハーブが亡くなりました。私を含め、スタッフはみな、彼の突然の死に動揺を隠せなかったのです。病状は悪化していたものの、担当医も看護師も、彼がこんなに早く亡くなるとは誰ひとり思ってもみなかったからです。
ハーブの訃報にショックを受けた娘さんは、2日前の音楽療法のセッション中に起きたことを知ると、こう言いました。
「昔、父がよく唄っていた歌があるの。父が唄った歌は、その曲じゃないかしら…」
ハーブが最期、ジャズシンガーとして本来の姿をとりもどせたことが、娘さんにとって救いになったのです。
彼はあの日なぜ唄ったのでしょうか。最期に自分らしくあるため?それとも、娘さんと私にお別れを告げるため?アルツハイマーだったにもかかわらず、自分の死が近いことを無意識のうちに悟ったのかもしれません。
たとえ認知症の患者さんであっても、本来の自分をとりもどせるし、メッセージを発することができる可能性がある。だからこそ、どんな患者さんであってもしっかりと耳をかたむけることが大切だということを、彼は私に教えてくれました。
※ハーブのストーリーは『ラスト・ソング 人生の最期に聴く音楽』(ポプラ社)で詳しく書きました。
『ラスト・ソング 人生の最期に聴く音楽』を読みました。本の中の2番目のエピソード、「さよならのメッセージ What a wonderful world.」ですね。 ハーブが佐藤さんとの最後のセッションで謳った曲はなんという曲だったのでしょうか?
如何に病んでいても、自分が生き生きと生きた時のことを覚えているのですね。
8/22佐野
佐野さん、こんにちは。『ラスト・ソング』を読んでいただき、ありがとうございます。ハーブの最後の歌はいまだに謎です。でも、歌っていたときの彼の表情は鮮明に覚えています。
昔から’お迎えに来る’ってよく言いますが、僕たちよりもずっと偉い先達がそういう言葉を残されているのだから、あり得ることだ感じます。自分の身近でも、死をまじかにして先に逝った父や母、あるいは夫や妻がしきりと夢に(夢といってよいかどうかわかりませんが)出てくると言うことがままありす。ハーブは、きっと最後に歌った歌を先に逝った奥さまにいつも聞かせていたのではないでしょうか?まるで娘さまが奥さまであるかのように歌われたのではないでしょうか?彼は、それで奥さまのお迎えを受け入れられたのだと感じます。
死を前にした人間にとって、言葉があればもちろんですが、それがなくても音楽や絵画の持つその伝える力は計り知れないものがあると感じます。生きるということの本質であると感じますね。
コメントありがとうございました。 アメリカでも「お迎えに来る」という発想があります。 そして実際、亡くなった家族や犬が迎えに来た、と言って死んでいった患者さんを何人も診ました。
音楽療法やアートセラピーは、ホスピスや緩和ケアにおいてとても重要な役割があると思います。
自分は医師ですが、音楽療法やアートセラピーの効果には極めて肯定的です。なかなかサイエンスとしては成り立ちにくいため興味を抱かない医師もまだまだ多いのが現状であるように感じますが・・・。きわめて俗っぽいですが、カラオケ好きな高齢者は元気なように思います。
初めまして。
僕は今、死生観について学んでいます。(独学ですが)
どう死のうかと考えたとき、「どう死ぬか」じゃなくて「どう生きるか」に考えが変わったきっかけが武士道の考えでした。
武士道の死生観を学ぶとやはり、僕は日本人なんだなと実感します。
ある方の教えで死を超越すると真の自由が得られると学びました。死を超越するってなんだ?真の自由って何?
外国に死生観ってあるの?と思ったとき、トム・ハンクス主演のグリーン・マイルって映画に出会いました。
世界恐慌の時代に冤罪で死刑になるストーリーだけど、日本だけじゃなくてその国(アメリカ)にも死生観はあるんだと実感しました。
人は自分の死がわかると受け入れることは出来るのでしょうか?
以前の僕は自分の死を考えると怖くて眠れなるくらいだったけど、死生観を学ぶと不思議と自分の死が怖さが和らんできました。これが自分の死を察することなんでしょうか?
とりとめのない文章ですみません。僕は今、本気で死生観を考えています。
とても興味深いコメント、ありがとうございました。 ホスピスの患者さんのなかには、死を受け入れることができる人とできない人がいます。 大抵の患者さんは告知を受けた後、今後の短い人生をどう生きるか考え、充実した日々を送ります。 武士道の死生観と同じですね。 もっと早く死の必然性(MORTALITY)に気づいていればよかった、とよく患者さんが言います。 そうすれば生き方が変わったのではないか、もっと充実した意味のある人生がおくれたのではないか、と言うのです。
突然、コメントしたくなりました。横須賀で在宅医療に専念している三輪医院の爺医です。私、昨年末から佐藤由美子さんに同行して何人かの患者さんをご紹介しました。死生学に興味がある方のごコメント、興味深く読ませていただきました。医師としてよりも多くの患者さんから学んだことはまさにその「死生観」です。とにかく、”人が死ぬという現実”に直面しているうちに伝わってくるものがあります。それを見ようとも、感じようともしない人にはただの”忌むべきもの”ですが、じっと見つめていると様々な死にざまの中にその人らしさや、その人の生きてきた物語が持つ意味がなんとなく伝わってくるような気がします。いろいろな先人、偉人、哲人たちが残した言葉はその断片をと洗えているようですね。でもやはり、自分の言葉で理解できるようになるまで、とにかく考え、付き合い続ける生き方が結論をもたらすのではないかと思っています。[生きているものがいくら確定的な言葉を行っても、信じきれないのは当然でしょうね)そんな風な思いで生きていると、[特に最近]あちこちに暗示的な出来事や表現があることに気付くものです。もしかしたら聖書はコーランに書いてあるような”Sekaino owari;世界の終わり”が、(紅白歌合戦にではなく)現実に登場するかもしれませんね。。。
千場先生、コメントありがとうございます。先生からはいつもいろいろと勉強させていただいています。またお会いするのを楽しみにしています!